次週予告。第85話(7月28日)で、田邊教授(要潤)は万太郎(神木隆之介)に植物学教室への出入り禁止を言い渡しました。「私の魂は自由になった」と勝ち誇ったような笑みを浮かべました。そして、寿恵子(浜辺美波)は夫を抱き締め、「万太郎さんは終わらない、終わるもんですか」と言いました。万太郎の進む道は…。
祖母や姉や竹雄や妻は家族なので、好意や献身に対してお礼を言えば、万事オーケーかもしれませんが、他人には目に見える形で感謝と敬意を示さなければなりません。世間知らずの万太郎は、そのことにいつまでも気づくことができませんでした。才能と魅力でお目溢しをしてもらえるかと思ったが、今回はそうはなりませんでした。厳しくも現実的な展開です。
試練はあっても、後味が悪いだけの結末や、ご都合主義に終始する薄っぺらいハッピーエンドを迎えることはなさそうで、最終回まで安心してついていきます。
牧野富太郎博士の自叙伝や伝記では、矢田部教授(田邊教授のモデル)は完全に悪役として描かれている場合が多いようですが、ドラマでは脚本、演出、要さんの演技力により、ネット上でも田邊教授に同情的な人が多いですね。しかし、矢田部教授が悲惨な最期を遂げたように、田邊教授にも近い未来に不幸が待ち受けている予感がします。
この言葉は、勝利宣言というよりも、逆に自分が彼の存在に圧倒され、焦らされてきたことを吐露したものだろう。これまでの描写からも分かるように、彼はただの悪漢ではない。悲劇的な歴史的事実と相まって、多分最後には視聴者を良い意味で裏切ってくれるのではないかと思われる。
万太郎の行為は、学会の常識からすれば問題があったと思われますが、教室全体に損害を与えたわけではありません。また、やり直しの機会も与えられず、いきなり出禁にするのはやり過ぎかもしれません。
「私の魂は自由になった」という言葉がどんな場面で言われたのかはわかりません。しかし、昨日の前半で森氏という大きな後ろ盾を得たことが描かれていました。もしかすると、自らが得た権力を誇らしく思っており、その奢りから言葉が出たのかもしれません。
もしそうだとすると、万太郎の行為によって自尊心が傷つけられたことを赦せなかったのかもしれません。月曜日の放映が楽しみです。
教授は自分自身の呪縛から解き放たれたと言っているように見えました。それは目に見えない自分自身の幽霊と闘っていたようなものでした。視点を変えることで、世界が一瞬で変わることがあります。
自分自身と闘っていたため、傷みを伴うのは当然でした。運が悪ければ精神を病むこともあるでしょう。それでも、教授は妻を労り、自分の闘いは自分の中で消化してきました。それは妻を守ることでもありました。側から見れば孤独であっても、決して揺るがない強さだと私は思います。その点で、万太郎と比べると彼は稚拙な印象を受けます。
人の業を描く作品は、見ている方にも精神的な体力が必要です。私はこの作品に全力で没頭することはなかったですが、素晴らしい作品だと思います。ただ、手放しで楽しめる作品とは言い難いです。特に朝に見ると重く感じます。
田邊教授は、万太郎に対して複雑な心境だったと思います。嫉妬や妬みなどの負の感情だけでなく、彼に期待していたようにも見えました。周囲の人たちから最初は評価されなかったが、いつの間にか皆が認めるような人徳もありました。そのため、田邊教授は彼が自分の元に来ないかと言って断られても、すぐには出入り禁止にしなかったのでしょう。ただ、万太郎が自分のことしか考えていないように見えたため、彼は単なる自分と同じタイプの人間だと思ったのではないでしょうか。そのため、彼が脅威となりうるライバルであると判断し、排除しようとしたのではないかと思います。田邊教授の「何を期待していたのか……」には、彼の複雑な心情が上手く集約されていたと思います。
今思えば、教授の「私のものになれ」という言葉は、単純な勧誘ではなかったのだと思います。在りし日の万太郎は、人に好かれ花に好かれ、何も恐れない性格で、そのことが妬ましく思われていました。彼は自分の醜さに気づき、苦しんでいたのです。
そんな葛藤を抑えつつ、田邊は「自分のためだけにその才を使わせる」ことでプライドと友情を守り続けたのだと思います。万太郎は、田邊のややこしい性格を理解できなかったのかもしれません。彼はシンプルな性格だったからです。
もし万太郎が教授を気遣うような気持ちを持てていたとしたら、後世にその名を残すことはできなかったかもしれません。天才を超える天才とは、こんな人なのかもしれません。田邊は、あらゆる分野で秀才タイプであり、秀才の中でも最高峰と言えます。しかし、天才と秀才では、その分野においては秀才は天才には勝てないということを、田邊は理解していたのでしょう。
現在では、牧野富太郎は偉人として尊敬されています。そのため、彼の生き方を否定することはできません。しかし、「全てを研究に捧げた」ということが素晴らしいことなのかという疑問もあります。もし、あの時代にタイムマシンで行ったとして、あの長屋に住んでいたら、奥さんを見てどう思うだろうか?実家が研究に使う金のために店をたたんだ、あの従業員たちの生活はどうなったのだろうか。
もし田邊を主人公にするドラマがあったとしたら、万太郎はどのように描かれるのだろうかと興味を持ちます。
万太郎と田邊教授を見ていると、「アマデウス」というモーツァルトとサリエリを描いた映画を思い出す。皇帝付きの権威を帯び当代一と称される楽士サリエリが苦吟の末に絞り出してきた譜面を、お気楽オッパッピーのモーツァルトが即興でアレンジし、鈍重だった曲調を天に駆け上る軽やかな音列へと昇華させる。神に愛された天才と努力で這い上がってきた秀才の絶望的な落差。どんなに準備に手間暇をかけ野山を彷徨っても成果の出ない田邊教授と、たまたま落ちた池で新種を見つける万太郎。こいつ殺す…とつい思っても無理はないよ人間だもの(研究室追放なら穏当な方だ)。しかし、そのような天才を見出し理解することは、ただの凡俗には決してできない。努力を極め、ギリギリまで自らを高めたサリエリや渡邉教授のような人だけが、センサーを手に入れることができる。同時代において誰よりも早くモーツァルトを認め、万太郎に場所を与えたのが彼らだ。優れた批評家がいるからこそ、天才は世に出ることができる。
万太郎と田邊教授の関係性は、タッチの上杉達也と柏葉英二郎に似ていると思います。主人公に対して複雑な感情を抱きつつも、最も主人公を理解しており、単純悪ではない壁となる存在であると。出会いからの印象度は逆でも同様です。
万太郎の「なんとかなる」という無邪気で場当たり的な思考だけでは、限界が来ています。それは、お寿恵ちゃんも気付いており、誰よりも画工の野宮さんが知っています。
人は皆一人で大成することはできず、多くの人の協力や援助によって道が切り開かれ、先へ進めるのです。それに万太郎自身が気付かない限り、同じことの繰り返しになりますね。
次週予告での綾の「ほれた人間は一人しかおらん」に対し、竹雄の「ズギャン」が可愛かったです。万太郎は、田邊教授がダメなら今度はロシアのマキシモヴィッチ博士のところに行くのでしょうか?これまで順風満帆だった万太郎の物語が一変しそうですね。
万太郎は、もっと他人に気を配れる人だったと思います。お酒が飲めなくても、当主の座が嫌でも、生まれながらに峰屋の当主としておばあちゃんから厳しく躾けられて育ったから、天真爛漫でも他人に気を配れる様子は何度も描かれていました。しかし、自分が名付け親になりたいと思った頃から少しずつ傲慢な欲が出てきて、今回の論文でも周りに感謝しながら、精密な画と論文を書き上げたけれど、教授の名前を入れることは、もし事前に大窪から指示されていても拒否していたかもしれません。
田邊教授の森有礼への恩の返し方と、万太郎の田邊教授への恩の返し方が対比されていたと思います。
若き田邊は、自分の留学を実現するために森有礼を利用しましたが、その恩を忘れずに目に見える形で忠義を尽くしています。政府の仕事を断ることができないため、誰かを利用することに理解を示す若き万太郎であったものの、目に見える形で恩を返さなかったため、許せませんでした。もちろん、研究者としての嫉妬心も多分にあったでしょう。
万太郎は、学歴に対するコンプレックスを持っていたかもしれません。植物の知識や採集、標本作り、作画においては、誰にも引けを取らない自負があったと思います。東大理学部植物学教室がどれだけすごいかという気持ちも、多少あったかもしれません。富豪のボンボン育ちであるため、世辞に疎く、周囲と歩調を合わせる、相手に花を持たせるという意識がなかったのでしょう。万太郎が、東大植物学教室で謙虚に振る舞っていたら、違った人生を歩んでいたかもしれませんね。
田邊教授は、「私のものになりなさいから、論文を書いて世界に発表しろ」と融和的な姿勢を見せていました。しかし、大窪助教授のように頭を下げなければ共著にしないのかとも思われました。現実的に考えると、万太郎は、無償で大学の資料を使い放題なのだから、田邊教授に感謝するだけでなく、恩を返す必要がありました。ロシアに行っても同じことですね。
もし万太郎が先回りして、田邊教授との共著という形で発表していたら、万太郎は『田邊教授のもの』から抜け出せなくなっていたかもしれません。彼が田邊教授のために思うような結果を出し続けなければ、パワハラを受けたと思います。決裂するのは時間の問題でした。 教授の奥様に対する優しさや、陰での葛藤を見ているから、つい教授に感情移入してしまいますが、彼は自分が認めない人間に対しては、例え相手が学生であっても辛辣な人でした。徳永助教授に対しても、結局最後まで上から目線で、アカハラそのものでした。 寿恵子は、高藤からの身分ロンダの提案をきっぱりとはねつけて、万太郎の元へ走りました。自分が自分であることを選びました。 私たちは、万太郎が誰かの庇護によるエセ植物学者としてではなく、彼自身として金色の道を進んでいく姿を見たいと思っています。
いくら学歴が大事だと言っても、田邊教授のように結果を残せない人よりも、在野で実績を積み重ねる万太郎の方が世間から評価されそうです。ロシアの専門家などは、学歴など関係なく万太郎を高く評価しているようです。
高知を出るときに、東京では、その性格がいつか災いを起こすというようなことを言われましたね。今回はたぶんその伏線回収だったのでしょう。あと2か月、最後まで目を離せません。
あの場に徳永先生がいれば、事前にチェックしてアドバイスをもらえたかもしれませんね。田邊教授には腹も立ちますが、それは要さんの演技が素晴らしかったからなのでしょうね。
《お寿恵ちゃん》に出会って間もない頃、《万太郎くん》は「ズギャン!!」と心を射抜かれてしまいました。幼き頃よりずっと傍で仕えてきた《誰よりも大切な女性》=《綾さん》に、心の奥深くにある『核』に留まるような「ズギャン…」という感覚があります。
《万太郎くん》らしさと《竹雄くん》らしさの対比が感じられ、良かったですね!
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