朝ドラ「虎に翼」#俺たちの轟の花岡への愛情表現に称賛の声

虎に翼

寅子(伊藤沙莉)は花岡(岩田剛典)が違法な闇市の食べ物を拒否し栄養失調で亡くなったことに衝撃を受け、桂場(松山ケンイチ)は「泣くことではなく行動することが重要だ」と励ます。戦地から戻った轟(戸塚純貴)は、よね(土居志央梨)と再会し、新憲法について語り合う。よねは花岡の死について話を振り、轟は花岡への複雑な感情を吐露する。ネットでは轟の花岡への感情が恋愛や友情を超えた深い愛情であることに注目され、番組の丁寧な制作が称賛されました。

難しいですね…この時代においてカミングアウトすることは、社会的に抹殺される可能性がありましたし、轟さんが「惚れる」という言葉に過剰反応する様子を見ていると、やはり彼もそのような感情を抱いているのではないかと感じます。

ただ、よねちゃんや他の友達への対応を見ていると、彼が男女という枠にとらわれない愛情を持っている人なのではないかとも思います。世の中に苦しめられてきたよねちゃんと、戦争で心身共に傷ついた轟さん。お互いが心の奥底に隠しがちな優しさを、互いにさらけ出すことができる二人なら、きっと上手くいくでしょう。

この二人の紡ぐ物語を、ぜひ単独の連続ドラマとして作ってほしいと思います。脚本家の吉田恵里香さんは、轟が花岡に対して恋愛感情を含んだものとして描いていると明かしていましたが、視聴者によって見方は様々で、その感情が恋愛として映った人もいれば、友情の範疇だと感じた人もいます。私自身も、轟がまだ自分の気持ちを完全には理解していないと思っています。

現代でも、マイナーなセクシュアリティを持つ人たちの中には、自認できていない人や、自認していても周囲からは理解されないケースが多いでしょう。性別や恋愛感情は白黒の二択ではなく、曖昧な部分も含んでいるのです。男性も女性も好き、どちらにも恋愛感情を抱かないという人もいます。

おそらくセクシュアルマイノリティである轟とよねさんのバディが紡ぐ物語には、今後も注目したいと思います。絶対に素晴らしいバディですよね!

このドラマは主人公の成長とともに、法律とは何かを丁寧に描こうとしているのでしょう。そして、それを視聴者に大上段から教えるのではなく、一緒に考えさせるようなスタイルを取っているように思います。

日本では、法学部に進んだ人以外は、自国の法律について教育制度の中でしっかりと学ぶ機会がほとんどありません。多くの人が見ている朝ドラというエンタメを通じて、生身の人を描きながらこのテーマを扱う志には敬意を表したいです。フィクションだからこそ描ける真実を、私たちに見せてほしいです。

いつもこのドラマの質の高さを感じて観ていましたが、記事の通り、今日はオープニングクレジットに「ジェンダー・セクシュアリティ考証」の担当者が記載されているのを見て、その作り込みの丁寧さを再確認しました。これは、よねさんがセリフで言ったように、白黒つけたり白状させたりする下品な展開になっていないところ、ある意味で視聴者の多様性に委ねるような懐の深さが現れていた気がします。

今月がプライド月間であることも意識されていたのかもしれませんが、戦後の舞台に現代のLGBTQ+のフィーリングをそっと落とし込んだセンスの良さを感じました。

よねさんが「白黒つけなくていい」と言ったにもかかわらず、白黒つけたがるコメントが多いのがもどかしいです。よねから見たら、轟の花岡への気持ちは明らかに恋愛感情に見えました。しかし、轟自身はその感情が特別なものであるとは感じていたものの、それが恋愛だとは思っていなかったようです。よねから指摘されて初めて振り返り、確かに恋愛感情だったのかもしれないと考え、よねのおかげでその感情を否定する必要がないと気づいたのです。よねによって救われた轟の姿は、得難い友情が垣間見え、本当に尊いものでした。

明治から大正期の男子校では、武士道の一部として衆道が男女の愛よりも崇高なものとされていたこともありました。結婚は子を成すために行われましたが、精神的な契りは続いていました。このような文化背景を理解すれば、今日のよねの言葉や轟の告白がセクシュアルな意味ではないことも分かります。時代考証の先生から、そのようなレクチャーがあったのではないかと思います。

ただ、衆道が男女の愛よりも崇高だというのは、少し男尊女卑の要素を含んでしまいます。実際には、死を隣り合わせにした戦場での精神的な支えが、日常の恋愛よりも強くなることを述べているのではないかと思います。

そんな純粋で一途な思いを抱き、花岡との再会だけを夢見て地獄の戦場から帰ってきた轟に、さらなる苦しみをもたらした花岡の死。日本で帰りを待ちながら夫を亡くした寅子や花江よりも、気持ちの持って行き場がなかったことでしょう。その轟を救ったよねは、大天使のように見えました。

脚本家の吉田恵里香さんが本日の回についてXに投稿された内容を引用します。元の文章は今回の放送を見て「恋愛の意味なわけないでしょ」と思った方ほど読んでほしいです。

轟の、花岡への想いは初登場の時から【恋愛的感情を含んでいる】として描いていて私の中で一貫しています(本人は無自覚でも)。人物設定を考える時から彼のセクシュアリティは決まっていました。

「この設定はいらなかった」「盛り込みすぎている」というご意見(中略)こういう意見があがる度、エンタメが「透明化してきた人々」の多さ。その罪深さを感じます。これは個々の問題よりも、社会全体の教育や価値観の問題です。

轟さんが少しヒゲを薄くしたことで、最初は誰かわからないほどイケメンでかっこよく見えました。辛い展開もありましたが、「虎に翼」にはその辛さを和らげる濃い登場人物や良き登場人物もいて、ほっこりする場面もありました。「ブギウギ」が終わってロスになりそうでしたが、今回の作品も楽しみに見られるので良かったです。ここ最近のおかげで早起きできるのも良いですね。

脚本家が最初から恋愛感情を持ったキャラクターとして描いていると発表していますね。過去の朝ドラにもバーのママ的な位置付けで姐さんが登場することはありましたが、一般的な男性のキャラクターとして描かれたのは大きな変化です。

学校の1クラスに1人はLGBTの生徒がいると言われていますが、今よりも周囲に言えない空気が強く、公言していない人が多かっただけで、当時もLGBTの人は一定数いたでしょう。特殊なキャラクターとしてではなく、ドラマの一エピソードとして視聴者が自然に受け入れられる時代になったら良いと思います。

惚れた人を失う辛さは誰もが同じです。切ないシーンでした。

例えば、昭和14年の東海林太郎のヒット曲「名月赤城山」の冒頭の歌詞が「男心に~♪男が惚れて~♪」です。「惚れる」という言葉は普通に使われていて、必ずしも肉体関係を表しているわけではありません。当時の感覚では、友情と愛情は紙一重だったと考えて良いでしょう。

最近はあまり使われなくなった言葉ですが、いわゆる「男惚れ」というやつではないでしょうか。男が男に惚れる、あいつのためなら命をかけられる、というような感情です。

“バンカラ九州男児”な轟くんのキャラなら有り得るし、誰よりも”男前”なよねさんだからこそ、本人にもよく分からないその気持ちを察することができたのかもしれません。

今度は二人が最強のバディとなって、弁護士として法廷で裁判官となった寅子と向き合う場面が見たいです。

男が惚れる男ということですね。一時、表は良い顔をして裏は全く違うやつと感じる描写がありましたが、入院の際にはチャラチャラしていたし、ああ、ダメ男だったかと思ったら轟さんからの叱咤で本当の花岡さんに戻りました。

今日の放送では、自分が弁護士になれたのも花岡さんのおかげだと言っていましたが、お互い様です。轟さんがそばにいたことが花岡さんにどれだけ安心を与えたか。

もらい泣きするほど悲しみが伝わってきました。

花岡に惚れていたんですね、轟。徴兵された時は、花岡じゃなくてよかった。オレでよかった。花岡を死ぬかもしれない場所に行かせたくないと思っていたんですね。階段で花岡と婚約者が現れた時は、ショックのあまりカバンを落として、しばらく固まっていましたよね。ヨネと同じ動きして、花岡の去っていく背中を目で追っていました。ヨネと花岡に詰め寄っていました。花岡が明律に来た時は嬉しかったんですね。一緒に学生生活を送れて、変わっていく花岡にたまらなくなって「バカヤロー、お前は俺が惚れたお前じゃない」と高速ビンタをしたんですね。ヨネも寅子には同じ気持ちを持っていると思うから、轟とヨネはシンパシーを感じるでしょう。二人とも好きだとは言えないけれど、誰よりも寅子と花岡には幸せでいてほしいと願う二人ですね。寅子とヨネの再会も近いですね。花岡公園を大事に使っていますね。あそこにいたら、絶対に会えますね。

昭和時代にヒットした歌謡曲「名月赤城山」の歌い出しは次の詞で始まります。
 『男ごころに男が惚れて 意気がとけ合う赤城山』
農民を救済した侠客・忠次親分、それを慕う子分や民衆の心を歌っています。

惚れるという言葉には、恋愛対象として恋いこがれるという意味だけでなく、人物や物事の魅力に心を奪われる、心酔する、といった意味でも使われます。この一言をことさらにジェンダーやセクシュアリティと結びつけて論じる必要はないのではないか、などと考えるのは私だけでしょうか。

ともかく、心身に傷を負ったとはいえ、よねと轟の二人がともに生存し、新たな一歩を踏み出すために手を握ったことは、本当に良かったと思います。今後、大学の同級生たちも何らかの場面で再登場するのではないでしょうか。彼女たちが待ち望ん

だ社会的自由と平等が新憲法によって定められた下で、それぞれどんな生き方を選ぶのか、注目していきたいです。

「惚れる」という言葉が全て恋愛感情に結びつくものでもないと思います。もし、轟さんが女性と結婚していたとしても、よねさんは同じことを言ったでしょうし。わかりませんが、それを想像するのがドラマの楽しい見方だと思います。

まあ、今でいうBL的なものではなく、人間として大好きな人というのは同性異性関係なくいてもおかしくはないと思いますよ。恋愛感情なら、寅子への気持ちにもやきもきしたと思いますし、すべて真っ直ぐ全力で花岡を自分もできればそうなりたいという憧れもあったのだと思います。

私も寅子と同じく恋愛には鈍感なので、よねさんが轟に「花岡に惚れてただろ」と言った時、「え~!そうだったんだ、あの鞄ドサッはそういうことだったんだ」と初めて思い至りました。その後の轟の愛する人を失った悲しみの独白には胸が締め付けられました。そしてSNS上の轟の恋愛感情を認めない書き込みの多さにも驚かされました。「いやそれは人として惚れたのだろう」とか「男惚れというやつだろう」とか、「友愛で恋愛のような劣情ではない」とか決めつけて、同性を愛することはそんなに悪いことなのでしょうか。昔から衆道などもあって日本は同性愛には寛容だと言われていますが、カミングアウトする人は本当に少ないそうです。その訳が分かりますね、差別の根は深いです。

うーん、私は寅子を振った時に花岡が轟に「これからは正しく生きていく」と言ったので、自分も彼を追い詰めたのではないかと後悔して慟哭したのかと思っていました。ちょっと無理がある展開なので、これからこの法律事務所がこういう問題にも道を付けていくという前振りに感じました。いずれにしろ、二人が生きていて良かったです!

意外でした。てっきり轟とよねさんのカップル誕生かと思ったので。でも花岡がピクニックの時に山から落ちてケガをし、退院時に轟が付き添っていた時、あれ?と思いましたが、友人とはいえ、へー男同士でそこまでしてあげるのかと。愛だったのですね。そしてよねさんは、多分寅ちゃんが好きなんだろうなと感じました。

今までやたらと男が、女が、とやってきて、その対立ばかりが目立っていた「虎に翼」ですが、更にその先まで描こうとしているのだと思います。よねちゃんと轟くんが握手した時、よねちゃんが笑ったような気がしましたが、よねちゃんは轟くんに惚れてる?とか思ったけれど、いやよねちゃんは寅に…ん〜まぁもうとにかく皆幸せになってほしいです。

戦争といえば、亡くなる=戦地で戦った軍人と空襲にあった民間人くらいしか思っていなかったけれど、寅ちゃんパパと優三さんは病死、花岡さんは餓死といろんな死があって、さらに道端では生気を失った人が座り込んだままハーモニカを吹いていました。あの方がいなくなる時も来るのでしょうか。名も無い方のようですが、この方もどうなるのか気になりますね。

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