NHK朝ドラ「エール」藤堂先生と最後になるのかなぁ?

NHK朝ドラ「エール」

慰問でビルマを訪れる裕一。

そこで、藤堂先生がいることを知るのでしょうね。

裕一は、会いに行くに違いない。

藤堂先生が出征してから何年?

第1話の墓前の前のシーンを思い出します。

これが、藤堂先生との最後になるのか?

それとも、無事に帰ってきてから、お亡くなりになるのか?

戦争を伝えたいなら、藤堂先生の最後のシーンになりそうな気がしてならない。

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ネットの感想

父親もビルマ戦線にいました。あまり戦場での悲しい話はしてくれませんでした。
食料として配給された牛は結局部隊のペットとして最後まで食べられずにいたそうです。代わりに蛇を食べていたそうですが、油が強くてまずかったとのことです。
同じく食料として配給されたアヒルも最後まで残り、人間以上の聴力で敵機の来襲を知らせてくれたので重宝したとのことでした。晩年になっても「アヒルは可愛い」が口癖でした。
恐らく悲惨な戦場だったと思いますが、そういう話はしなかったですね。悲しすぎるのだったと思います。

戦争の話を余り語らない亡き父はきっと歌で励まされたのでしょう 放送でたびたび聞く曲がありました

太腿に引きつれの傷がありましたが
多分戦争の傷あとと思います
子供心に知らずに聞いても父は話すことはせず成人してからはタブーと思い聞くことはできませんでした
辛い傷あとだったと今更ながら感じます

来週は、辛い場面が多くなるだろうけど、裕一の戦後の作曲活動につながっていく週になると思うので、覚悟して画面から目をそむけずに見るぞ。

この時期、昭和19年の南方との海上輸送は危険極まりなく、多くの輸送船がアメリカ潜水艦によって撃沈(当時はボカチンと呼ばれていた)されていました。裕一(古関裕而)の往復無事だったのは奇跡に近い。強運の人だったんですね。

何故、戦争はいけないのか?
戦争どころか暴力もケンカもいけない

朝ドラは戦争前後を描く作品が多いですが、
そう言う作品は学校などでも視聴して平和や
暴力、イジメについて考える時間を持って欲しいと
願っています

子供の頃、教科書と先生の話だけで戦争の話を
しましたが、もう体験を話せる方は殆ど居ません

ぜひご家庭や学校で教材的な参考にもして欲しいと
思います
高額な視聴料金を取るNHKの使命でもあると思います

私の叔父はビルマでマラリアにかかり病死。父は学徒出陣で海兵隊に配属となったものの訓練中に終戦。父は「戦争はやっちゃいかん。アメリカは戦争中に娯楽映画作るくらい余裕あるのに、竹槍で勝てるわけがない。」と言っていました。裕一も悲惨な戦地の実態を知り、自分の歌が若者を戦地へ送ったと苦しむのでしょう。そこからどのように立ち直るか楽しみです。

父は、戦争に行かなかったのですが、復興、高度成長時代の土台を作りました。亡くなった方々に対してやらなけばならない気持ちがあったから踏ん張りが利いたのかと思います。良く軍歌を歌っていたなあ。

エールを通して見てきて、気付いたことがあります。それは亡くなった父が生前「予科練」の歌をよくくちずさんでいたこと。私は当時まだ小学生で、なぜ父が「予科練」にこだわって歌っていたのか理解できませんでした。

父は古閑先生の歌が好きだったんですね。しかもあれは戦争に関する歌だったんだと今更ながらに分かったんです。

窪田正孝さん、本当にいい役に抜擢されましたね。コロナで一時撮影は中断されるというアクシデントに見舞われましたが、来週はいよいよ小山裕一が戦場へ行き、その戦いの悲惨さを目の当たりにする場面が多くなるんですよね…!!

窪田さん、小山裕一の役柄に一層磨きが入っていきますね!ちなみに私の妹は窪田さんの大ファン。それをきっかけに朝ドラはまってます。(笑)

私の父も戦争の話はほとんどしませんでした。
辛すぎたのだと思います。音楽と社会を教える教師でしたが、立場上何を教え、指導していたのか亡くなった今は聞くすべもありません。間もなく赤紙が…というときに終戦をむかえたそうですが、生徒や仲間を戦地に見送ったことがよほど辛かったのだろうと想像します。

私の父親は予科練でした、あの写真で見た制服が出て来て、感動しました。父親は戦争の話はしませんでしたが、同期の桜じゃないけど、仲間との繋がりをずーっと大事にしていました、皆さん結構長生きされてました。

飢餓、白骨街道の最悪インパール作戦で今にも死にそうな兵士たちにとっては裕一達の慰問はしばしの心の安らぎであったろう。なお、兵士達が飢餓で倒れる中、作戦の立案、実行をした牟田口司令官はぜいたくな食事をしていたそうだ。これでは勝てない。

今年71歳の戦後派です。亡父は徴用で戦地に赴くこともなく、防空壕を掘ってるうちに終戦になったと話していました。戦争のことは良く知りませんが、学校で習ってないのに何故か「露営の歌」「暁に祈る」「若鷲の歌」など歌えます。エールを観てこれらがみな古関裕而さんが作曲した歌と知りました。

うわ、南方のピルマ戦線
インパール作戦、ジンギスカン作戦の
所か、一番悲惨な所、生還率の低い戦地。

この作戦自体、無謀であり
陸軍内部でも作戦の反対と決行に
分かれていて、おまけに
牟田口とかいう無能な指揮官のおかげで
たくさんの命が失われたという。

牟田口は戦後、寿命を全うするのだけど
あの作戦に対してなんの責任感もない
正当化のコメントを残しているから
腹が立つ。

当然その遺族は、恨まれることになるの
ですが。

私の今は亡き叔父も予科練に行っていたそうです。
人間魚雷の回天に乗る事も決まっていたが終戦。戻ってきて戦後直ぐは荒れに荒れて手が付けられなかったと歳の離れた弟に当たる別の叔父が言ってました。生きて戻った人もそれぞれ複雑な思いがあった戦後だろうし、心のどこかにしまっても決して消さずに生きてきただろう。
歌がどんな感情を呼び覚ますかはこれまたそれぞれだろう。

先ほど、ジーンケリーのミュージカル映画を家族で楽しんで観たのだが、これが日本との戦争中に制作され上映されてたて聞くとショックだ。なんという余裕だろう。負けるべくして負けたのだのだなぁと思う。
小関さんも、戦争中ディズニーの「ファンタジア」をアメリカが制作し、楽しんでいるのを知ってショックを受けたそうだ。文化も芸術も生き生きと明るく活動している敵国の余裕に勝てないと感じたそうだ。
日本は、息も絶え絶えだったのにね。

日本国民は、太平洋戦争を否定的な目で見ることが当然のように受け取っているが、果たしてその通りなのだろうか?
日本は、アジアを列強支配から守るために戦ったのだ。
インパール作戦が史上最悪の作戦だという評価は、後の時代に付けられたものに過ぎない。
日本人は、勝利を信じて最後まで戦ったのだ。
それを愚かな行為と言われては、死んでいった兵隊たちが浮かばれない。

どうして、戦争責任は全て日本にあるという自虐史を受け入れてしまったのだろう?
交通事故の例えでは、事故が起きた場合、どちらか一方が100%責任があるということはありえない。

そろそろ、公正中立な立場で、日本人自身が太平洋戦争を再評価してはどうだろう。

ビルマの竪琴を思い出します。エール時を越えて身にしみる

軍歌を聞くと涙が出ます。当時、10代の人達が特攻で散っているので。
どんな気持ちだったのか、想像してみては如何でしょうか。

史実では、古関一行(日野葦平と画家の向井潤吉)3名は、特別報道班員として派遣されたもの。その前の雲南などに行った慰問とは違う。慰問なら歌手が同行しないと慰問にはなりえない。また、駐屯地を慰問するのであって、作戦行動中の部隊を慰問するなんてあり得ない。
インパールは作戦は4月29日の天長節に陥落する目標で、それに合わせて古関一行は向かったが、結局陥落できずに作戦中止の7月まで古関はラングーンにいた。火野と向井はインド国境まで行って、悲惨な状況を目の当たりにしてきて、火野の書いたものが発刊されたらしい。
インパールの最大の問題は補給で、おそらく藤堂先生は第33輜重連隊ではないかと思うが、それぞれ中隊に分かれて必死で補給しているところだろう。これを古関が追及(おいかける)するなんて、荒唐無稽もいい所だ。

つまり、藤堂先生の戦死は決定と。
史上最大の無茶苦茶な作戦。インパール作戦。

 

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