NHK朝ドラ『おむすび』が描く阪神・淡路大震災 ~30年の時を超えて語られる記憶~

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世代を超えて語り継がれる阪神・淡路大震災の記憶

「阪神淡路大震災は今から約30年前。私が生まれたのが1968年で、その30年前はまだ太平洋戦争は開戦されていない」というある視聴者の言葉が、時の流れの不思議さを物語っています。

来年で震災から30年を迎えようとしている今、朝ドラ『おむすび』は私たちに重要な問いを投げかけています。それは、この震災の記憶をどのように次世代に伝えていくのかという課題です。

ドラマの中で描かれた避難所での一場面。6歳の結が「おばちゃん、チンして」と無邪気に言った一言に、多くの視聴者が自身の記憶を重ね合わせました。「東灘区の者です」という視聴者は、避難所でキャンプに来ているかのようにはしゃぐ幼い子どもたちの姿を思い出したと語ります。パジャマ姿で連れてこられた子どもたち、校庭に繋がれた犬と遊ぶ姿、体育館の壁に張り出された「お年玉」「初日の出」の書き初め。そんな光景が、一瞬にして蘇ってきたのです。

「あの震災の事を本気で伝えたいと思うものの、どこか避けてきたんだと実感します」と3人の子どもを持つある母親は語ります。毎朝ドラマを見て泣いている母親の姿を見て、子どもたちも何かを感じ取っているのではないかと、彼女は考えています。

震災を経験していない世代にとって、阪神・淡路大震災は歴史の一页です。しかし、それは決して遠い過去の出来事ではありません。「日本にいる限り地震は避けられない」という現実は、今なお変わることはありません。阪神・淡路大震災以降、建築基準は改められ、震度6程度では建物は崩れにくくなりました。しかし、津波や火災、土砂崩れの危険性は依然として存在しています。2024年の能登半島地震は、その教訓を私たちに突きつけました。

「被災された方の苦労は想像以上であるかもしれないけれど、何らかの方法で事実を伝えなければならない」という声は、震災の記憶を風化させてはならないという強い思いを表しています。ドラマという媒体を通じて描かれる震災の記憶に、賛否両論があるのは当然かもしれません。しかし、「青春時代の最後を神戸で過ごした一人として、子どもたちに伝えていく力になりたい」という言葉には、強い決意が込められています。

経験者それぞれが見た景色も、その思いも、感じ方も異なります。すべてを完璧に再現し、伝えることは困難かもしれません。しかし、『おむすび』は、その記憶を丁寧に掘り起こし、現代に生きる私たちに投げかけています。それは、震災の記憶を風化させることなく、次の世代へと確実に継承していくための、私たちへの静かな問いかけなのかもしれません。

被災体験者たちの生々しい証言が重なり合う朝ドラの世界

朝ドラ『おむすび』の放送後、多くの被災体験者たちが自身の経験を語り始めました。それぞれの証言は、まるでモザイク画のように重なり合い、あの日の姿を浮かび上がらせています。

「当時19歳。友達が死傷し、私も震度5強を体験した大阪在住の大学生でした」という証言者は、あの日とその後のボランティア現場での光景が、まるで昨日のことのように蘇ってきたと語ります。画面に映し出される一つ一つのシーンが、埋もれていた記憶を呼び覚ましていきました。

高校生だった方は、より具体的な記憶を語っています。大阪や京都から通う生徒たちの連絡網は、電話が繋がらない生徒を飛ばして回していったそうです。震災から数日後、決められた安否確認の日に、何時間も瓦礫の中を歩いて学校に辿り着きました。そこで、連絡が取れなかった親友の訃報を知ることになるのです。「新聞やテレビで行方不明や犠牲者を流していて、1日中見ていて、カタカナで同じ名前が見つかって」という言葉からは、当時の切迫した状況が伝わってきます。

「初めは小さな横揺れ、念のためダイニングテーブルに潜った途端ジェットコースターに乗っているかのような激しい縦揺れ」という中学生だった方の証言。「地球が壊れる!」という恐怖を感じたと振り返ります。体育館での一夜は、空腹もトイレも、何も考えられない状況だったといいます。

避難所の記憶も、それぞれの視点で語られています。「鮨詰め状態の避難所で空腹を我慢する人々」「皆で持ち寄ったりコンビニやスーパーの売れ残り商品を分けあったり」「やたら寒かったので温かいものが恋しかった」など、その時の状況が生々しく伝えられています。

特に印象的なのは、「人間、心が荒んでいくと感覚がマヒをしてくる」という証言です。「あのマンションにはまだ3人取り残されたままらしい」という会話が、普通に交わされていた現実。それは、非日常が日常となっていく過程で、人間の心に起こる変化を如実に物語っています。

「自分の住んでた街がひどいことになってるの見続けるのは辛い」という声に、多くの被災者が共感を示しています。しかし、その一方で「風化させたく無い気持ちはわかるが、思い出したくは無い」という複雑な思いも吐露されています。それは、震災の記憶を語り継ぐことの難しさを表現しているのかもしれません。

『おむすび』は、こうした多様な被災体験を丁寧に描き出そうとしています。視聴者からは「今まで見た震災のドラマの中で一番自分にとっては現実に近い映像でした」という評価の声も上がっています。それは、多くの被災者の証言に耳を傾け、その経験を映像化することで実現された表現なのでしょう。

トラウマと向き合い、乗り越えていく被災者たちの思い

震災の記憶は、多くの被災者の心に深い傷跡を残しました。『おむすび』の放送を見た視聴者たちは、自らのトラウマと向き合いながら、その思いを言葉にしています。

「東日本大震災で被災経験しました」という方は、中学校体育館で三日程寝泊まりした際の心痛む出来事を語ります。自宅から着替えや寝具を調達して戻る道すがら、小学一年生くらいの女の子から「また地震きたら津波が来るの?そしたら大丈夫なの?」と涙声で尋ねられたそうです。見知らぬ大人に話しかけてくるほど不安定な心理状態だったその子に、「この場所は大丈夫」と答えることしかできなかった無力感が、今でも心に残っているといいます。

「阪神淡路地震のシーンで忘れていた生き埋めになって自力で脱出した事を思い出した」という証言者もいます。怪我は指の骨折だけで済みましたが、冬になると骨折した指だけが異様に冷たくなり、医師から「命が助かっただけでも良かった」と言われたといいます。朝ドラを見ていて思わず涙が溢れ出してしまったと語ります。

特に心を揺さぶられたのは、「震災で肉親や大事な人を亡くした人にとっては、震災時の記憶はまるで昨日の事のようにフラッシュバックする」という指摘です。「この心の傷は、時が解決するには深すぎる」という言葉には、30年近い歳月を経ても癒えることのない痛みが込められています。

ある視聴者は、「今でも地震のことを思い出すと苦しくなったり、涙がこぼれたり」すると告白します。実際の震災体験では、足音で瓦礫を踏む音を聞いた記憶、やけに周りが静かだった記憶が、今でも鮮明に残っているといいます。

放送に際して、NHKは被災者への配慮を示しました。事前に番組SNSでの告知を行い、放送中にはテロップを表示。さらに副音声でもアナウンスを入れるなど、細やかな対応を行いました。「阪神・淡路大震災だけでなく、その後の東北の震災、今年の能登半島の地震、傷ついた方が多くいらっしゃる中で配慮してくださったこと、とても嬉しかった」という声からは、そうした配慮への感謝の気持ちが伝わってきます。

しかし、トラウマと向き合いながらも、その経験を次世代に伝えていかなければならないという使命感も語られています。「辛いけど、後世に残していかないと」という言葉には、個人の苦痛を超えて、社会的な責任を果たそうとする強い意志が感じられます。

「あの震災の事を本気で伝えたいと思うものの、どこか避けてきた」という告白は、多くの被災者の心情を代弁しているのかもしれません。しかし、今回の『おむすび』の放送は、「今週、毎朝泣いている私を見て子供たちも何かを感じるんだろう」という言葉にあるように、トラウマと向き合いながら、次世代への架け橋を築こうとする被災者たちの新たな一歩となっているようです。

被災者の声から浮かび上がる、あの日の記憶と教訓

朝ドラ『おむすび』の放送をきっかけに、多くの被災者たちが自身の体験を語り始めました。その声の一つ一つには、後世に伝えるべき貴重な教訓が込められています。

「地震の前から目が覚めて、そろそろ起きようかと思った瞬間に地震がきた」という証言者は、宝塚歌劇の前売り日だったため、早起きをしていたと言います。激しい揺れの後、余震が続く中、6時過ぎに少しずつ明るくなり始めました。とりあえずスリッパを探して、ガラスの破片や倒れた棚、散乱する物の中を縫って外に出たそうです。近所の人々も同様に外に出てきて、不安を払拭するために情報交換を始めました。明るくなるにつれて、目の前に広がる悲惨な状況を目の当たりにしたと振り返ります。

ある視聴者は「実体験者としては正直 ちょっと違和感がありました」と指摘します。「グラグラという予兆も無く、いきなりドン!ドン!と揺れた感じ」だったと証言しています。また、避難所での体験も語られました。「皆で持ち寄ったりコンビニやスーパーの売れ残り商品を分けあったりして、食べ物や飲み物にはさほど苦労を感じなかった」ものの、「何より本当に困ったのはトイレ。そして風呂に入れない不快感」だったと言います。

商店関係者からは、より実務的な証言も寄せられています。「当時、勤めてた会社の営業所が神戸にもあるので、他人事ではありませんでした」という方は、最も被害の大きかった区域から離れていた営業所は倒壊を免れたものの、室内が酷い状態になり、ライフラインが止まって通信も暫くできない状況だったと語ります。その影響で、関西管轄の被害の少ない地域の取引先から問い合わせや注文が殺到したことを記憶しているといいます。

また、「阪神・淡路大震災が発生したのは未明の5時46分です」という指摘もありました。この正確な時刻の記憶は、多くの被災者の心に刻まれています。ある視聴者は「経験したものとしては、やっぱりみんな忘れちゃうんだなとちょっと悲しくも思う」としながらも、「遠い場所の人は発生時刻までは事細かに覚えてないですよね。逆を考えてもそうです」と、記憶の風化について冷静に分析しています。

建設関係者からは、震災後の変化についても語られました。「阪神淡路以降建築基準が変わり、それ以降は震度6くらいでは崩れなくなった」という証言は、災害からの教訓が具体的な形となって現代に活かされていることを示しています。しかし同時に「津波や火災、土砂崩れに関してはまだまだ」という指摘もあり、2024年の能登半島地震を例に挙げながら、新たな課題についても言及されています。

「その影響で、大阪方面の交通網が塞がり、日本海や内陸を経由して大阪京都を行き来したり」という証言からは、災害時のインフラ機能の重要性も浮かび上がってきます。被災地に隣接する地域でも、大きな影響を受けることを示す貴重な証言となっています。

これらの声は、単なる過去の記憶ではなく、未来への警鐘として受け止めるべき教訓を私たちに投げかけています。「折々に思い出さないといけません」という言葉には、災害大国日本に暮らす私たちへの、静かながらも力強いメッセージが込められているのです。

橋本環奈演じる結が語る、震災を生きた記憶

糸島フェスティバルでのパフォーマンスを終えた結(橋本環奈)が、海辺で四ツ木翔也(佐野勇斗)に語り始めた9年前の記憶。6歳の少女が体験した阪神・淡路大震災の記憶は、静かに、しかし確実に現代へと繋がっていきます。

当時6歳だった結(磯村アメリ)は、神戸で父・聖人(北村有起哉)と母・愛子(麻生久美子)が営む床屋の上の自宅に住んでいました。父は商店街にアーケードを設置するため、店主たちから署名を集めていましたが、靴職人の渡辺孝雄(緒方直人)からは賛成を得られないという日常の風景が描かれます。

その日常は、突然の地震によって一変します。家具は倒れ、屋根が落ちてくる中、避難所へと逃げる家族。結は当時を振り返り、幼かったこともあり記憶は不鮮明だと語ります。しかし、避難所での一場面は、鮮明に心に刻まれています。

鮮明な記憶として残っているのは、避難所でのおむすびのシーン。空腹を我慢する人々の元へ、おむすびを持った女性が到着します。ようやく食事にありつけた喜びもつかの間、結は冷めたおにぎりを口にして、何気なく「おばちゃん、チンして」と言ってしまいます。母の愛子はすぐさま謝罪しますが、おむすびを作ってくれた女性は「街も道路もめちゃめちゃで避難所までの道のりが険しく時間がかかった」と言い、思わず涙を流すのでした。

「X(旧Twitter)にも困惑する視聴者の声が溢れていた」と記事は伝えています。「辛いなぁ、、、」「自分の住んでた街がひどいことなってるの見続けるのは辛いよな」「地震怖かった、ってのもあるけど大変なのはその後なんだよ」といった声が寄せられました。

しかし、この描写に対して、実際の被災者からは異なる指摘も上がっています。「結は当時6歳だったという設定ですが、震災時の言動が、あまりにも幼いことに違和感があった」という声です。6歳であれば、震災という状況をもっと理解できる年齢ではないかという指摘です。

それでも、橋本環奈演じる結が、9年の時を経て語る震災の記憶は、視聴者の心に深く響きました。「困惑する声というよりも、あの時はこうだった…など、地元の人が色々と教えてくれたり」という声が示すように、この場面は多くの被災者の記憶を呼び覚まし、新たな対話を生み出すきっかけとなったのです。

「B’zの主題歌が唯一ほっとできた」という感想が示すように、緊張感に包まれた展開の中で、結の語りは静かに、しかし確実に震災の記憶を現代に伝えています。それは、決して美しい物語ではありません。しかし、6歳の少女の目を通して描かれる震災の記憶は、30年という時を超えて、私たちに問いかけ続けているのです。

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