朝ドラ「おむすび」で描かれる、阪神大震災と向き合う家族の9年

おむすび

震災を経験した少女の日常が一変した朝 ~阪神大震災からの物語~

1995年1月のある朝、神戸に暮らす6歳の結ちゃんの世界は、一瞬にして変わってしまいました。前日まで、大好きな姉の親友・真紀ちゃんからもらったセーラームーン風のアクセサリーに夢中になって、無邪気に笑顔を振りまいていた少女の日常が、突然の揺れによって崩れ去ってしまったのです。

地震発生から数時間、街の様子は刻一刻と変わっていきました。家々は倒壊し、長田の方では大規模な火災も発生。被害の全容は、被災地にいる人たちよりも、むしろテレビを通じて見ている人たちの方が把握できていたかもしれません。避難所となった体育館には、着の身着のままで逃げてきた人々が次々と集まってきました。

その日の夜、やっと配給されたおむすびは冷たくて、小さな結ちゃんの心にも冷たい記憶として残りました。多くの被災者の方々は、その日一日、水すら口にすることができず、翌日もバナナ1本で過ごさなければならなかったそうです。おむすびの配給すら届かなかった避難所もあったと聞きます。その中で、子どもたちやお年寄りが優先的に食べられるよう、大人たちは我慢を重ねていたのでしょう。

避難所での生活が始まると、被災者たちは驚くべき団結力を見せました。震災からわずか4、5日で、自主的に名簿を作成し、段ボールで空間を区切り、生活のルールを作っていったのです。支援物資が届く前から、自分たちでできることを始めていた。その強さは、まさに神戸の人々の誇りだったのかもしれません。

でも、同じ被災者であっても、その悲しみは決して同じではありませんでした。家族を失った人、家を失った人、仕事を失った人。被害の大きさは人それぞれで、その心の痛みを簡単に分かち合うことはできなかったのです。それは、同じ家族の中でさえ同じでした。結ちゃんの家族も、それぞれが違う形で震災の傷を抱えることになりました。

特に、お父さんの聖人さんは、震災後の家族との向き合い方に悩み続けます。「地震の時きちんと向き合えなかった」「やりすぎたとはわかっとるよ。でも、俺も何をしていいかわからんかったんやて」という言葉からは、家族を守りたいのに、どうすればいいのかわからなかった父親の切ない思いが伝わってきます。

震災は、単に物理的な被害だけでなく、家族の中に潜んでいた問題も浮き彫りにしていきました。それは結ちゃんの家族にとっても同じでした。でも、その試練を乗り越えていく過程で、家族それぞれが少しずつ成長し、絆を深めていくことになるのです。愛子さんが歩さんに「じゃあ次は歩の番だね」と語りかけたように、この家族は時間をかけながら、少しずつ震災との向き合い方を見つけていくことになるのです。

1995年は、阪神・淡路大震災だけでなく、地下鉄サリン事件も起きた激動の年でした。その中で、人々は必死に前を向いて生きていこうとしました。神戸ルミナリエの輝きが、街の復興への希望を照らし始めたように、結ちゃんの家族も、少しずつ前に進んでいく物語が始まっていくのです。

丁寧な取材から浮かび上がる、被災者たちの記憶

『おむすび』の制作現場では、何十人ものスタッフが震災に関する取材や資料の読み込みを重ね、丁寧に物語を紡いでいきました。特に、避難所での生活を描く上では、当時の状況を知る多くの方々から貴重な証言を集めることに力を注いだそうです。

松木健祐さんが演出を担当した第5週では、避難所の管理をしていた学校の先生や市役所の方、地域のリーダーの方々に実際に現場に足を運んでいただき、細かな状況をヒアリングしていったとのこと。「今は地震発生から3時間後です。周囲の状況はどうでしたか?」「カーテンは開いていましたか?」「ストーブはありましたか?」といった具体的な質問を投げかけながら、当時の様子を一つ一つ丁寧に掘り起こしていったのですね。

取材を通じて見えてきたのは、私たちの想像とは少し異なる被災地の姿でした。地震発生直後、被災者の方々は意外にも多くの言葉を交わしていたそうです。暗い表情で押し黙っているというよりも、むしろ興奮気味に話し合う姿が印象的だったとか。そして驚くべきことに、被災からわずか数日で、避難所の人々は自主的に運営体制を整えていったのです。

でも、この取材過程で見えてきた事実は、とても重いものでもありました。実際、18歳で灘区の自宅で被災された方は「あの日あの朝はほんと現実感が無かった」と振り返ります。家の中は散乱し、建物も傾いていたものの、崩壊は免れた。でも、電気が止まってテレビも見られず、自分の目に映る光景しか情報がない。そんな中で、南のエリアでは家が押しつぶされ、長田では大火災が発生していることなど、後になって初めて知ることになったのだそうです。

取材を担当した方々は、「100人いたら100人のエピソードがあって、それぞれ感じ方が違っている」という現実に向き合うことになりました。同じ被災者であっても、その悲しみを簡単に分かち合うことはできない。それは、取材を通じて見えてきた大きな共通点の一つだったのです。

宇佐川隆史さんは、この作品における震災の描写について、「その表現が正しいのか議論はあると思いますが、このドラマをきっかけに神戸のことや震災のこと、そして私たちが今置かれている状況や身の回りのこと、人々に思いを馳せてもらえたらと思っています」と語っています。

風化させてはいけない記憶があります。でも、それを表現することの難しさも確かにあるのです。当時、調査会社として現地に入られた方は「仕事として現地に入る人も毎日、渋滞で疲労困憊。食べるものも冷たいおにぎりや冷たいお茶。炊き出しなんてもらえない。トイレも使用できない」という厳しい現実を語ってくださいました。

このような丹念な取材の積み重ねが、ドラマの中で描かれる一つ一つのシーンの重みとなっています。松木さんは、特に”時間”を大切にしたと言います。被災した翌日には前を向けた人もいれば、1週間後、1カ月後、1年後と、それぞれの方が違う時間の中で震災と向き合っていった。その時間の流れをどう表現するかということに、制作陣は真摯に向き合い続けたのです。

消えることのない心の傷と、向き合う家族たち

震災から9年が経った2004年、米田家の人々はそれぞれの形で心の傷を抱えながら生きていました。特に、お父さんの聖人さんと娘の歩さんの関係は、深い溝を感じさせるものとなっていました。その様子を見つめる結は、どこか言葉を失ったような表情を浮かべています。幼い頃の震災の記憶が、家族の中でまるで見えない糸のように絡み合っているかのようでした。

ある日、酔った勢いで聖人さんは本音を漏らします。「地震の時きちんと向き合えなかった」「やりすぎたとはわかっとるよ。でも、俺も何をしていいかわからんかったんやて」。不器用な父親の言葉の端々には、家族を守りたいという強い思いと、それができなかった自責の念が滲んでいました。

一方で歩さんは、金髪に染めた髪で父親を驚かせます。その姿を見た時の聖人さんの言葉には、困惑と共に深い愛情が感じられました。「ウザいってアレかっ?!あのウザいかっ?!」という不器用な言葉の裏側には、娘の変化を受け入れられない戸惑いと、それでも理解しようとする父親の懸命な努力が垣間見えるのです。

小さな結は、そんな父と姉の間で板挟みになっていました。「自分も傷ついている!!お姉ちゃんなんて大嫌い!」という感情の爆発は、震災以降ずっと抱えてきた複雑な思いの表れだったのかもしれません。家族それぞれが抱える傷は、時として相手を理解することを難しくしていたのです。

愛子さんは、そんな家族の様子を見守りながら、歩さんに「じゃあ次は歩の番だね」と声をかけます。この言葉には、それぞれの心の傷と向き合うには、それぞれの時間が必要だという深い理解が込められているようでした。

実は、震災による心の傷は、決して米田家だけのものではありませんでした。東日本大震災で家族を失った方の中には、支え合いによって絆が深まったケースもあれば、深い悲しみの中で立ち直れない方々もいらっしゃいました。「一瞬で家族と仕事と家失った方、たくさんいらっしゃった」という現実は、今なお多くの方々の心に重くのしかかっています。

避難できた人々の中には、むしろ復興に携われなかったことへの罪悪感を抱える方も少なくありませんでした。ある方は「ずっとみんなを置いて逃げてきたって言っててそこを後悔する」と語ります。被災地を離れることを選択した人々の心の中には、複雑な思いが渦巻いているのです。

しかし、この物語は、決して希望を失うものではありませんでした。米田家の人々は、ゆっくりと、でも確実に前に進もうとしています。時にはダンスで笑顔を取り戻したり、酔った勢いで本音をぶつけ合ったり。それは決して完璧な解決方法ではないかもしれません。でも、お互いを思いやる気持ちは確かに存在していて、それが家族を繋ぎ止めているのです。

いつか、真の解決の時が来るかもしれません。それは恐らく、真紀さんのお父さんである孝雄さんとともに、みんなで向き合う時なのかもしれません。それまでは、この家族はそれぞれの方法で、心の傷と向き合い続けていくのでしょう。

ギャル魂で前を向く少女の成長物語

平成元年生まれの結が大切にしている”ギャル魂”。それは単なる派手な見た目や反抗的な態度ではなく、どんな時でも自分らしさを失わない強さの象徴なのかもしれません。震災を経験した少女が、栄養士という夢を見つけ、人々の心と未来を結んでいこうとする姿には、深い意味が込められているように感じられます。

あの日、冷たいおむすびを口にした6歳の結の経験は、きっと彼女の人生に大きな影響を与えたことでしょう。脚本の根本ノンジさんは、この場面について「子どもの視点からこの地震を見たときにどうだろう。結の中にどのように刻まれるだろう」という思いを込めて描いたそうです。そして、この経験は後の結の人生において、栄養を学ぶきっかけとなり、栄養士になってからの決断の原点になっていくのです。

糸島フェスティバルでの活躍も、結の成長を物語る重要な出来事となりました。海辺で四ツ木に語った「あの日のこと」は、彼女が少しずつ過去と向き合い始めている証でもありました。当時の神戸の街には、結のようなギャルもたくさんいたそうです。それは、どんな状況でも自分らしく生きようとする若者たちの姿だったのかもしれません。

主演の橋本環奈さんは、震災後に生まれた世代です。それでも、震災のことを一生懸命理解しようとしながら撮影に臨む姿に、松木健祐さんは深く心を打たれたといいます。それは、世代を超えて記憶を継承していこうとする、若い世代の真摯な姿勢の表れだったのでしょう。

結の成長物語は、実は現代を生きる私たちへのメッセージでもあるのかもしれません。近年、都市型地震が頻発し、地球温暖化の影響で自然環境も大きく変化している中、私たちはどのように前を向いて生きていけばいいのでしょうか。

結は栄養士として、人々の心と未来を結ぶ仕事を選びました。それは、冷たいおむすびの記憶を持つ少女が、温かな食事の大切さを誰よりも理解していたからかもしれません。震災を経験した人々が「他の地震で少しでも役に立ちたい」と願う気持ちと同じように、結もまた、自分にできることで誰かの力になりたいと考えているのです。

2004年の糸島。この地でも、結は自分らしさを失わず、”ギャル魂”を胸に秘めながら成長を続けています。時には家族と衝突し、時には涙を流しながらも、彼女は確実に前へと進んでいます。それは、震災を経験した神戸の街が、ルミナリエの光に照らされながら復興への道を歩んでいったように、希望に満ちた歩みなのです。

この”平成青春グラフィティ”は、決して過去の物語ではありません。むしろ、現代を生きる私たちに、大切なメッセージを投げかけているように感じられます。どんな困難に直面しても、自分らしさを失わず、誰かのために何ができるかを考え続けること。結の”ギャル魂”が教えてくれる生き方は、そんな普遍的な価値を持っているのかもしれないのです。

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